第七十六回
稀代の名ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニを偲ぶ

2024.05.01

文/岡崎 正通

20世紀の後半から今日までクラシック音楽界を牽引してきた名ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニがこの3月23日に82才で亡くなった。ポリーニが現代のもっとも偉大なピアニストのひとりだったことに異論をはさむ人は、まず居ないことだろう。1942年、イタリアのミラノに生まれて、60年のショパン国際ピアノコンクールに出場して優勝。このとき審査員長をつとめたアルトゥール・ルービンシュタインが“いまここにいる審査員の中で、彼より上手く弾ける者が果たしているだろうか・・”と絶賛したのは、すでに伝説のようになっていた。しかしポリーニは、すぐに国際的な舞台で活動を始めたわけではなかった。音楽的な表現力という点でまだまだ未熟であることを誰よりも分かっていたのは、他ならぬポリーニ自身。世界中からのコンサート出演の依頼を断わってさらに研鑽を重ね、国際ツアーを始めたのは68年になってからのこと。そして満を持してといった感じで71年にグラモフォン・レコードと契約。積極的にレコーディング活動をおこなうようになった。そんなマウリツィオ・ポリーニが生涯に残したアルバムの中から、とくに個人的に印象にのこっているアルバム3枚を選んでみる。

♯250 ストラヴィンスキーのピアノ曲にみせる研ぎ澄まされた感性と集中力

ストラヴィンスキー/ペトルーシュカからの3楽章、プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第7番、他

「ストラヴィンスキー/ペトルーシュカからの3楽章、プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第7番、他」
(ユニバーサルミュージック UCCG-53038)

小生にとってマウリツィオ・ポリーニは、斬新きわまりないピアノ・タッチとともに、とつぜん目の前に現れた。あまりにも鮮烈だったポリーニ体験!グラモフォン・レコードから発売された最初のアルバムがこれ。何よりも出だしの部分の和音の鋭さ!はっとして驚いているひまもなく、ストラヴィンスキー独特の内在するリズムが万華鏡のように変化してゆくのを、研ぎ澄まされた感性ともの凄い集中力で演じてみせている。

タイトルからもわかるように、この曲はストラヴィンスキーが1911年に書いたバレエ音楽「ペトルーシュカ」が基になっていて、謝肉祭で賑わうペテルブルク広場の人形芝居小屋を舞台にした「ペトルーシュカ」から3つのテーマを取り出して、作曲者自身がピアノ用に編曲した。編曲といってもオーケストラのものとピアノ曲では、かなり異なった様相を呈していて、実質的には再作曲といって良いものかもしれない。<ロシアの踊り><ペトルーシュカの部屋><謝肉祭の日>からなる、複雑なダイナミズムと精緻をきわめたストラヴィンスキーのスコア。高度なテクニックを要求される曲であるのは間違いないが、ポリーニは超絶的なテクニックとともに、燃え上がるような生命力をもって完璧に表現しきってみせる。オリジナル盤はプロコフィエフのピアノ・ソナタとのカップリングだったが、さらにウェーベルンの変奏曲とブーレーズの第2ソナタを加えたCDがリリースされていて、ポリーニの現代作品への造詣の深さもよく知ることができる。

♯251 風格あふれるポリーニの揺るぎないピアニズム

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番“皇帝”、第4番

「ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番“皇帝”、第4番」
(ユニバーサルミュージック UCCG-4620)

タイトルどおりの堂々たる品格をもったベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番。この曲が書かれたとき、ベートーヴェンはまだ30才代の後半。有名な“運命”や“田園”などの交響曲を作曲して、きわめて旺盛に創作意欲を燃やしていた時期でもあった。ピアノをダイナミックに扱って、オーケストラと対等の立場で会話し、融合させてゆく壮大な作品を、ポリーニは大きなスケール感とともに揺るぎない風格を漂わせて聴かせてくれる。

カール・ベームが指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を向こうに回した78年の録音盤。その2年前に吹き込まれた<第4番>の情緒あふれる表現も最高だ。グラモフォンにはポリーニがクラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニーと90年代初めに再録音したものもあるが、僕はウィーン・フィルが柔らかい響きを聴かせるこちらの演奏のほうに、いっそうの愛着をもっている。

♯252 ポリーニが描き出す、孤高のショパンの世界

ショパン/幻想ポロネーズ、舟歌~ショパン後期作品集(Late Works)

「ショパン/幻想ポロネーズ、舟歌~ショパン後期作品集(Late Works)」
(ユニバーサルミュージック UCCG-1753)

生涯にわたってポリーニは、多くのショパン・アルバムを吹き込んでいる。“12の練習曲”に始まって“前奏曲集”“ピアノ・ソナタ”“ポロネーズ”“スケルツォ”“バラード”“夜想曲”“マズルカ”等々。そして2015年から16年にかけて録音されたのが、「Late Works」と題された、晩年のショパンの作品ばかりを演奏している本アルバムである。晩年といってもショパンは39才で亡くなっているので、作品としてはいっそうの成熟をみせていった頃だった。恋人との破局、体調の悪化が重なった苦境の中で生み出されたショパンの作品は、デリケートなハーモニーの響きや細やかな作品の構築がいっそう深味をみせるようになっていた。

いっぽう年齢的には70才代半ばにさしかかろうとしていたポリーニの表現は凛とした中に、どこかしみじみとした味わいを湛えていて、そんなショパンの心象を美しく描き出してゆく。円熟の極みに達したポリーニが、この時期のショパンの作品ばかりをとりあげる思いはいかばかりのものがあったのだろうか。傑作とされる<舟歌>と<幻想ポロネーズ>。“小犬のワルツ”として知られる第6番を含む<3つのワルツ>。そして絶作とされる<マズルカ第19番>まで、ポリーニが辿り着いた孤高のショパンの世界がここにある。

筆者紹介

岡崎正通

岡崎 正通

小さい頃からさまざまな音楽に囲まれて育ち、早稲田大学モダンジャズ研究会にも所属。学生時代から音楽誌等に寄稿。トラッドからモダン、コンテンポラリーにいたるジャズだけでなく、ポップスからクラシックまで守備範囲は幅広い。CD、LPのライナー解説をはじめ「JAZZ JAPAN」「STEREO」誌などにレギュラー執筆。ビッグバンド “Shiny Stockings” にサックス奏者として参加。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。