第五回
カッツィーニのアヴェ・マリアを、さまざまに味わう

2018.06.01

文/岡崎 正通

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“カッツィーニのアヴェ・マリア” のメロディーを初めて耳にしたのは、たしか1995年の秋頃のことだったと思う。この世のものとは思えないといっても、けっして大げさでないほどの美旋律であり美曲。同時に不思議に思ったのは、これほどの美しいメロディーが、なぜこれまで歌い継がれてこなかったのかということで、音楽史の中で片隅に追いやられてきたというのは僕の中でも疑問のままであり続けていた。そんな “カッツィーニのアヴェ・マリア” の不可思議なストーリーである。

♯13 ぴたりとはまっているイネッサ・ガランテの名唱

DEBUT/Inessa Galante

「DEBUT/Inessa Galante」
(Campion RRCD-1335)

ある日、 “カッツィーニのアヴェ・マリア” は突然、僕の耳に飛びこんできた。イネッサ・ガランテというクラシックの歌手が唄っているアルバム「Debut」の8曲目に入っている。たまたま立ち寄った数寄屋橋のCDショップで何気なしに流れていたのが、この “天上の音楽” という喩えも大げさでないほど美しいメロディーであり、美しい歌声だった。 “アヴェ・マリア”といえば、シューベルトやグノーの “アヴェ・マリア” は小さい頃から音楽の授業でも習って知っていたが、 “カッツィーニのアヴェ・マリア” はまったく知らない。こんなにも美しい “アヴェ・マリア” があったのかと感嘆して、まだ店頭に並べる前のアルバムを無理を言って半ば強引に購入したのを憶えている。イネッサ・ガランテはラトビア生まれのソプラノ歌手。いくつかのオペラでタイトルロールを歌っているものの、世界的に名の知れた大歌手というわけではない。しかし彼女の清涼な歌声と柔らかい表情は、このメロディーに格好のものであって、まるで彼女の為に作られたのではないかと思わせるほどぴたりとはまっていた。

早速カッツィーニという作曲家にも関心が向いたのだったが、まだインターネットもなかった時代で、16世紀から17世紀、バロック音楽の初期のイタリアの作曲家であるということのほかは、ほとんど分からなかった。本名はジュリオ・カッツィーニ。

ところが何年か経って謎が判明する。この曲はじつはカッツィーニが書いたものでなく、実際はソ連のウラジミール・ヴィバロフという作曲家が1970年頃に作ったものだというのだ。ヴィバロフは敢えて自分の名前を匿して、他人の名前をタイトルにつけた曲を書くことが多かったそう。その理由は自分の名前では売れないので、どうしても世に出したいと思うあまり、すでに知られている作曲家の名前をつけたというのだが、これもにわかには信じがたい話。推測するに当時の社会主義国家の中にあって創作活動には制限があり、自由に権利を主張することなどできなかったのかもしれない。そうであれば西側の作曲家の名前まで使って自分の作品をどうしても世に出したいと願ったヴィバロフは、とても強固な意思と高邁な精神をもった人物だということになる。彼が書いた “カッツィーニのアヴェ・マリア” のメロディーが90年代になるまで、ほとんど世に出ることなく、歌い継がれてこなかったというのも納得できる話だ。イネッサ・ガランテのアルバムでも、作曲者はまだG.カッツィーニとなったまま。アルバムには、ほかにもヴェルディやプッチーニ、ベルリーニをはじめとするオペラの名曲が多く入っていて、 “名曲アリア集” としても楽しめる。「DEBUT」はオーストリアのCampionというマイナーから出たもので、現在は廃盤になっているけれども、中古盤であればネットなどで入手可能と思われる。

♯14 タイトルに偽りなし! まさに入魂の一曲

入魂のアヴェ・マリア/鈴木勲

「入魂のアヴェ・マリア/鈴木勲」
(キングレコード KICJ-690)

80才を超えて、なお現役の最先端を走り続けるベテラン・ベーシスト、鈴木勲のグループによる2015年リリース・アルバム。タイトルどおりにカッツィーニとシューベルトの、入魂の “アヴェ・マリア” 演奏が含まれる。とくにカッツィーニは圧巻。この曲をベース・ソロで演じるなど、誰が想像できただろうか。メロディーの美しさとともに、鈴木のベースはとてもエモーショナル。曲に対する熱い思いが、これでもかという位に伝わってくる。 “入魂” のタイトルに恥じない超名演! 至福の5分間である。他の演奏も、リーダーのアグレッシヴな音楽スタンスが現れているものばかり。鈴木のベース・トーンの生々しさや表現に賭ける思いのようにものまでリアルにとらえた録音も、とても素晴らしい。

♯15 テナー・サックスで淡々と吹かれる “アヴェ・マリア”

ラメンテーション~ライヴ・アット・トーキョーTUC

「ラメンテーション~ライヴ・アット・トーキョーTUC」
(スペースシャワー・ミュージック BJL.DDCB-13026~27)

現代ジャズ・テナーの最高峰、川嶋哲郎さんのレギュラー・カルテットによる2014年作品。ジャズの世界で “カッツィーニのアヴェ・マリア” を最初にとりあげたのは、僕の知る限りでは川嶋さんがもっとも早かったのではないだろうか。2012年に吹き込まれたアルバム「祈り」の中で、川嶋さんはこの曲をフルートで演じていた。それも悪くないけれども、僕はテナー・サックスで吹かれる、このライブ・アルバムのほうが好きだ。激情的な即興プレイを身上とする川嶋哲郎さんが、むしろ淡々としたプレイで演じるところから、逆に深い思いやアーティスト像が伝わってくる。これもまさに“入魂の”一曲と呼ぶにふさわしい。

筆者紹介

岡崎正通

岡崎 正通

小さい頃からさまざまな音楽に囲まれて育ち、早稲田大学モダンジャズ研究会にも所属。学生時代から音楽誌等に寄稿。トラッドからモダン、コンテンポラリーにいたるジャズだけでなく、ポップスからクラシックまで守備範囲は幅広い。CD、LPのライナー解説をはじめ「JAZZ JAPAN」「STEREO」誌などにレギュラー執筆。ビッグバンド “Shiny Stockings” にサックス奏者として参加。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。