第二回
〝美しい音〟は、時を止める

2018.03.01

文/岡崎 正通

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“美しい音が、時間の流れを止める”というのも、また確かなことだろう。オーディオ・ノート社の試聴室でディスクを聴いていたときに、一瞬、時が止まったような感じを覚えたことが、いくどかあった。生理学的にみると“いつまでもこの音を聴いていたい”という気持ちが高ぶったときに、そういう感覚が訪れるのではないだろうか。そんな時の流れを止めてくれるような美音の3枚。

♯4 マリンバで演じられるバッハ。時が止まったかのような空気感

J・S・バッハ マリンバのための無伴奏作品集/加藤訓子

「J・S・バッハ マリンバのための無伴奏作品集/加藤訓子」
(LINN CKD-586S)

エストニアの古い教会の空間の中に、一台のマリンバで奏でられるバッハの響きが広がってゆく。そこに居合わせたわけではないのに、まして行ったこともない国なのに、一遍の風景が幻想のように浮かび上がってくる。チェロのバイブルといわれるバッハの“無伴奏チェロ組曲”を演奏するのは、世界を股に活躍するマリンバ奏者、加藤訓子くにこさん。チェロの譜面をマリンバ用に移し替えて編曲する作業も、彼女が自身でおこなった。

じつのところ加藤さんについて、それほど詳しく知っていたわけではない。同じようにマリンバという楽器についても、あまり深い関心をもったことがなかっただけに、加藤訓子さんの演奏から受けたのは、初体験の純粋に近い音楽感動だった。最初に耳にした加藤さんのアルバムは、2009~2010年にかけて録音された「クニコ・プレイズ・ライヒ」。スティーブ・ライヒといえば70年代に初期のECMレーベルからリリースされた「18人の音楽家のための音楽」というのがあって、当時キース・ジャレットのレコードと同じようによく聴いていた。シンプルなパターンが永遠に続いてゆくような不思議な音楽。まだミニマル・ミュージックという言葉が人口に膾炙していなかった時代の記憶である。

そして加藤さんの第2作「Cantus」は、僕も参加しているミュージック・ペンクラブ・オブ・ジャパンが主催する“ペンクラブ賞”で2013年の優秀録音作品に選ばれている。さらに「IX クセナキス」と現代作曲家の演奏が続き、この「バッハ作品集」は4枚目。5オクターブのマリンバから生み出されるのは、あくまでも豊かでふくよかな木の音色で、重低音がドローンのような響きで再生されるのを耳にして、マリンバの低音ってこんなにも深いものをもっているんだと驚く。古典曲が斬新なマリンバ演奏とともに蘇って、結局ライヒのミニマリズムの源流もバッハにあるのだと納得させられる。レコード・プレイヤーの老舗で、21世紀になってからは積極的にネットワーク・オーディオを推進しているイギリスのリン(LINN)傘下で、高音質アルバムを制作するリン・レコーズと契約している唯一の日本人アーティストが加藤訓子さん。時間が止まってしまったかのような空気感が、そのままディスクにパッケージされている。

♯5 トルド・グスタフセンによる抒情美の世界

チェンジング・プレイセズ/トルド・グスタフセン・トリオ

「チェンジング・プレイセズ/トルド・グスタフセン・トリオ」
(ECM ユニバーサルミュージック UCCU-5752)

これも時空が止まってしまったかのような感興にひたることのできるアルバム。ノルウェイのピアニストの中でも、屈指のメロディストといわれるトルド・グスタフセンが2003年に吹き込んだ初リーダー作である。

全曲がグスタフセンのオリジナルで、いっさいの無駄をそぎ落としたようなメロディーが、淡々と綴られてゆく。抒情的でありながら、コマーシャルに堕落することのない毅然とした演奏。この<グレイスフル・タッチ>や<ホエア・ブリージング・スターツ>を、何百回聴いたかわからない。このあとも順調に作品をリリースしてゆくグスタフセンであるものの、これがデビューにして最高作だと思う。愛聴盤。

♯6 現代クラリネットの名人が奏でる美音に酔う

ノアール/アナット・コーエン

「ノアール(NOIR)/アナット・コーエン」
(Anzic Records ANZIC-1201 輸入盤)

そして現代クラリネットの美音に酔うことのできる作品を一枚。けっして人材が多いとはいえなかったジャズ・クラリネットの世界に華麗に登場したのがイスラエル、テルアビブ生まれの才女、アナット・コーエンである。1979年の大晦日に生まれ、96年にアメリカに渡って、いまや世界を股にかけて活躍する名人中の名人。兄で作曲家、サックスを吹くユヴァル・コーエン、トランペッターのアヴィシャイ・コーエンとの“3コーエンズ(3 Cohens)”をはじめ、コンボ、オーケストラ、ラテン、エスニック系のバンドなど、多彩なフォーマットで自在なプレイをおこなってきただけに、すでにリーダー作も20枚近くを数える。

とくに愛聴してやまないのが、比較的初期の「ノアール」(2006年録音盤)。同郷のオデッド・レヴ・アリをアレンジャーに迎えて、ビッグ・バンドとブラジリアン・サックスがお洒落にミックスされている。クラリネットを吹くのは4曲だけで、あとはサックス類を手にするが、とくにクラリネットが出色の出来。このアルバムを吹き込んで間もなく、クラリネットでの来日ステージを聴いたが、どんな曲も新鮮に聴かせるのに感心した。ベニー・グッドマンのナンバーを演っても、まったくノスタルジーを思わせることなく、今の時代の曲のように演奏する。アレンジも凝っていて、ジャズ・オーケストラ編成に加えた3本のチェロが大きな効果をあげている。

もっとアナットのクラリネットが聴きたくなったら、ニューヨークの名門クラブでの全編クラリネットによるライブ盤「Clarinetwork/Live at The Village Vanguard」(ANZIC-1203)がお薦め。アナットの最新作は、やはりオデッドと組んだ「ハッピー・ソング(Happy Song)」(ANZIC-0058)だ。

筆者紹介

岡崎正通

岡崎 正通

小さい頃からさまざまな音楽に囲まれて育ち、早稲田大学モダンジャズ研究会にも所属。学生時代から音楽誌等に寄稿。トラッドからモダン、コンテンポラリーにいたるジャズだけでなく、ポップスからクラシックまで守備範囲は幅広い。CD、LPのライナー解説をはじめ「JAZZ JAPAN」「STEREO」誌などにレギュラー執筆。ビッグバンド “Shiny Stockings” にサックス奏者として参加。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。